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忘れられた研究所の秘密 ②

last update Last Updated: 2025-04-19 15:29:31
 ここでシオンは研究に没頭し、時には夜を越してまで続けていた。思い浮かぶのは、彼が満ち足りた笑顔で机に向かっていた姿。部屋のどこを見ても、シオンの存在がいまだにこの場所を支配しているように感じられる。

 中に足を踏み入れると、冷たい冬の空気が二人を鋭く包み込んだ。吐息がわずかに白く曇り、室内は静けさとともにひんやりとした湿気を漂わせている。土壁は冷え切り、かすかな霜がその表面にしみ込むように薄く光っていた。

 かつてシオンが過ごした時間の痕跡が室内の隅々に残されている。

 埃の積もった木肌の上に、くっきりと浮かび上がる笛の跡。その姿は、まるで時間の狭間に取り残された思い出の影のようだった。

「シオンの物、そのまま残してるんだね……」

 リノアの囁くような声が、埃っぽい空気の中に溶け込む。

 私たちにとって、ここにある全てのものが形見だ。たとえ時が流れても触れた瞬間に過去が蘇る。その儚さが、かえって手を伸ばすことをためらわせるのだ。

「手を付けてはいけない気がしてね……。何だか思い出が壊れそうな気がするから」

 そう言って、エレナは目を伏せた。

 その表情には、どこか切なさと迷いが見て取れる。

 リノアはエレナの言葉にじっと耳を傾けた。触れれば壊れてしまいそうな繊細な記憶。その言葉には過去を大切にしたいという想いが含まれている。

 リノアはゆっくりと息を吐きながら、視線を落とした。

 この部屋に満ちる静けさが、エレナの気持ちと重なり合うように感じられる。

 沈黙が流れる中、やがてリノアは目線をさまよわせ、ふと隅に積まれた木箱へと目を留めた。

「……あれって何だろう?」

 リノアが不思議そうな顔で呟いた。木箱の表面には、リノアが持っている笛と同じ文様が刻まれている。

「開けてみたら?」

 エレナが言った。

「でも……」

 エレナの言葉にリノアが戸惑いを見せた。

「いいのよ、リノア」

 リノアの視線を受け止めるように、エレナはそっと微笑んで言った。

 その笑顔には、これまで閉じ込めていた想いが解き放たれたような温かさがある。

「ここに来るまで、私はシオンの死に向き合うことを避けていた。でも、このままずっと触れないでいたら、思い出は遠ざかっていくばかり。シオンはそんなことを望んでいないと思うし……ね」

 そう言って、エレナは懐かしむように木箱へ視線を落とした。

「ほら、リノ
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  • 水鏡の星詠   ヴェールライト ⑨

    「シオン、私が守るよ。森を、みんなを」 リノアの言葉が夜の空気を揺らした。 星々の輝きがリノアのペンダントに映り込み、その光がリノアの決意を祝福するかのように瞬いている。 リノアの目には、もう迷いはない。 リノアはシオンの笛を衣の内側に仕舞い込んで、胸に響く音色の温もりを噛みしめた。 月光が水鏡のように揺れている。「リノア、いい音色ね」 紡ぎ出された穏やかな声にリノアは振り向いた。エレナが弓の手入れを終え、こちらを眺めている。 「シオンがラヴィナっていう人と連絡を取り合っていたなら、どこかに手紙があるんじゃないかな」 エレナの言葉に、リノアの胸がわずかに高鳴った。──兄のシオンがまだ語っていない秘密が、きっとそこに隠されている。 卓上ランプの淡い光が書棚や机を照らしている。光が揺らめくたびに、そこに刻まれたシオンの思索の痕跡が浮かび上がった。 壁には植物の精密なスケッチ、星の軌道図、そしてノクティス家の星の紋章が貼られている。それらは、シオンの尽きることのなかった好奇心の断片だ。「どうやら、ここにはラヴィナの手紙はないようね」 エレナはそう言って、視線を部屋の奥へ移した。微かな沈黙の後、エレナは慎重に言葉を選びながら呟いた。「たぶん、奥の部屋の棚だと思う」 エレナはシオンの恋人だった人だ。研究所には何度も足を運んでおり、シオンの癖や考え方を知っている。 リノアとエレナは部屋の奥へと進んでいった。 ランプの光がエレナの背中を淡く照らし、その動きに合わせて影が流れていく。「シオンは植物を研究する部屋、工作に励む部屋など、用途ごとに空間を分けていたの。大事なものは奥に保管してあるはずよ」 エレナの声には思い出を辿るような懐かしさが込められている。 リノアとエレナは、研究資料や道具が並ぶ廊下を抜けて、奥の部屋へと近づいた。静寂の中、微かに紙の擦れる音と二人の息遣いが響く。「私もこの部屋にはあまり来たことがないんだけど……。もしあるとしたら、この部屋じゃないかな」 リノアにとって、研究所はただ訪れる場所に過ぎなかった。兄妹とはいえ、シオンの研究には深入りすることはなく、入り口近くの部屋で過ごすことが殆どだった。 エレナも私と同じだったのか。それだけシオンの研究に対して尊敬の念があったということだろう。

  • 水鏡の星詠   ヴェールライト ⑧

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  • 水鏡の星詠   ヴェールライト ⑦

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